ようやく今日の宿・Sharíquaシャリーカに辿り着いた。雨は上がったものの空は薄暗く曇ったまま。他に周囲に人家は無い。静かに佇む白い建物に続く、小石を敷き詰めたアプローチをとぼとぼ歩く。背が高く重そうな玄関扉の前で少しばかり逡巡した後、呼び鈴に手を伸ばす。2・3度鳴らしただろうか。やや間を置いて、建物の中から返事の声が聞こえ、扉が開いた。
現れたのは黒のスウェターに身を包んだ長身の女性。ウェーブがかかった淡い栗色の髪。色白で端正な顔立ち。年の頃は私とほぼ同世代くらいだろうか。挨拶もそこそこに“随分遅かったわね、どうしてたの?連絡があると思ってずっと待ってたのよ。電話してくれればよかったじゃない…”彼女の口からは矢継ぎ早に私を咎める言葉が…。でもその口元は笑っている。そしてその瞳は、初めて迎える東洋からの珍客を前にして、子供の様な好奇心で輝いている。家主のAnnaアンナさんだった。
そもそもスペインの農家民宿に泊まりたい一心で、あても無くネット検索をしてみたのだった。彼の国では田舎宿がCasa Ruralカーサ・ルーラルと呼ばれている事を知り、その紹介サイトを通じて探し当てたのが此処シャリーカだった。予約の段になって前払金が必要になったのだが、日本の銀行から送金すると手数料が50ユーロ以上かかる事が判明。それでは一晩の宿泊費よりも高くついてしまう…。意を決して辞書を引き引き、辿々しいスペイン語で直接宿にメールして、なんとか到着時に支払えるよう嘆願した。わずか一泊、しかもシングル。およそ私なんぞ儲けにならない客に相違ない。なのに数日後送られてきた返事には、簡潔ながらも温かな言葉が記されていた。“私たちの小さなホテルを気に入ってくれてありがとう。前払いの事は気にしないで。こちらに着いた時でけっこうです。”
日本を発つ時におみやげにと買っておいたがま口財布をAnnaに手渡す。お返しに上手に折られた青い鶴を差し出されたのには少しびっくり。長旅で疲れている私をリラックスさせようと気遣ってか、彼女はにこやかな表情を崩さない。多少覚えているスペイン語を交えながら、シンプルな英語で会話できるのも有難かった。だが、部屋に案内し、一通りホテルの設備を説明し終えた後でAnnaは、私に確認する様にこう尋ねた。“あなたはいったいなんの目的があって、此処まで来る事にしたの?”
(メールにも書いたのだが…)僕は故郷で農業を始めたんだけど、スペインの農業事情や田舎の暮らしに関心があってやって来たんだ。農家民宿にも泊まりたいと思ってね…。
“でもご覧の通りうちは農家ではないわ。スペインでカーサ・ルーラル(直訳すると田舎の家)というのは、ペンションの事を指すの。それでもいいかしら?”
もちろん構わない、と私は答えた。なにしろ、すっかり此処が気に入ってしまっていたのだから。
部屋の中からも、ヘリカの街にそびえ立つ、あの鐘塔が見えた。
素晴らしい眺めだった。次第に暮れなずむ鐘塔と街の姿。その向こうには果てしないイベリアの大地が続いている。私はバルコニーに出て、疲れも忘れてしばし風景に見蕩れていた。
宿泊客は私ひとりだった。リビングのソファーで寛いだり、書棚のガイド本を捲ったり、自由に使ってくれていい、とAnnaは言う。それから夕食を摂る私の為に、車でわざわざヘリカの街まで送ってくれた。彼女が腕を振るってくれるディナーを頼めばよかったのだけど、予約をしていなかったのだ。(後から思えばとても残念な事をした。)
いくつか教えてくれたお店の中から庶民的なBAR(バル)を選ぶ。ちょうどサッカーのUEFAチャンピオンズ・リーグ、FCバルセロナとセルティックの試合の最中で、お客達は食い入る様にテレビ画面を見つめている。いく皿かのタパスとセルベッサ(ビール)を味わいながら私も観戦を楽しむ。1時間後に迎えを頼んでいたのだが、あっと言う間に時間は過ぎ、熱戦の途中に後ろ髪を引かれる想いで店を出ることに。
部屋に戻って、広いベッドに身を投げ出す。テレビもラジオも無いこのペンションは静謐な空気に満ちている。長く色々な事があった一日を反芻する…。しかし興奮とまだ残る時差ぼけの影響で私はなかなか寝付けなかった。そこでこの国の例にならって?夜更かしを決め込む事にした。旅のメモ書きに写真の整理…お愉しみは沢山あるのだから…。
〈続く〉