今月に入って断続的に続いた雨と寒さ。三寒四温ならぬ五寒二温にも感じられた気候が一変し、この週末は暖かな陽光に包まれた。圃場端に植えた水仙がぐんと茎を伸ばし、農道沿いの並木に梅の花が咲き誇る。圃場では白菜に水菜、小松菜…冬に採り残した野菜の菜の花が順に開いてゆく。家の周りにはふきのとう。野良の其処此処に春の萌芽を見つける事が出来る。それでもまだ暫くは寒さと暖かさが交互にやってきては、次第にその振り幅が小さくなり、桜の季節へと移ろうのだろう。
日ごとに春への期待が膨らんで来るこの時期になると聴きたくなる曲があって、『Waters of March』という。20世紀のブラジルが生んだ偉大な音楽家Antonio Carlos Jobimアントニオ・カルロス・ジョビンの作品である。ポルトガル語版の原題では『Águas de Marçoアグアス・ヂ・マルソ』。邦題は『三月の水』と紹介される事が多いが『三月の雨』とも呼ばれる。英語詞によるカヴァーは星の数ほど存在するだろうが、日本人ジャズ・シンガーAkikoが、Swing Out Sisterスウィング・アウト・シスターのCorinneコリーン嬢をゲスト・ヴォーカルに迎えて録音したものが気に入っている。柔らかな二人の歌声と活き活きとした掛け合いが楽しい、心弾むチューン。プロデュースはSOSを手掛けるPaul O'Duffyポール・オダフィ。初めて聴いた時には、こんな風にポップに軽快に仕上げる解釈もあるのか、と驚いた。
『Águas de Março/三月の水』。私の音楽観を一変させる衝撃をもたらした、Elis Reginaエリス・レジーナとジョビン本人による一期一会の名演を捉えた録音。João Gilbertoジョアン・ジウベルトによる余計な音を一切排した、“ブラジルの水墨画”の如きカヴァーも素晴し過ぎる。このふたつはもう別格で、遥かな高みに位置している感じがする。しかしジョビン名義の演奏と唄によるトラックの幾つかを聴いても、決定版と呼べるものが見当たらない。むしろ、何処かこの曲を持て余しているようにさえ感じられてしまう。生みの親である、あの巨匠にして扱いが難しい程の、途方も無い楽曲とは。
ブラジル(リオ)の3月はこちらの9月。盛夏を過ぎ、雨が多い季節だと聞く。葡語の歌詞は、ある日母親の農園を訪れ、流れる小川とその先に切り立つ崖を前にした時、突然に啓示のようにジョビンの内に浮かんで来て、それを急いで紙切れに書き留めたものなのだそうだ。真夏のカーニヴァルの狂躁の後の疲労感を3月の秋雨が洗い流し、また新しい季節が始まる。その節目に聴こえる『Águas de Março』は、幼い子供にも親しめる様な易しい言葉で綴られた、しかし深遠な、“再生”の詩なのだと思う。
一方、英語歌詞はジョビン自らが米国(北半球)の季節に合わせて、雪解け水をイメージしながら試行錯誤の末に書き降ろしたものだという。歯切れのよい英語の音が、原曲とはまた別の弾むような表情をこの曲に与えているのは、Akikoのカヴァーを聴いてもよく分かる。常々自作曲の英語翻訳に不満を抱いていたという理由はあるにせよ、選り抜いた言葉で、地球の反対側に暮らす人々のために、春の訪れを祝福するかの様な歌詞へとアレンジしてくれたジョビンの想像力と思いやりの深さに、私は感じ入ってしまうのだ。
作者自身が語る処によれば、英語の言葉を選ぶにあたっては、ラテン系語彙の使用を極力避け、アングロ・サクソン系の言葉だけで歌詞を書くように腐心したそうだ。3月を表す“March”がラテン語起源だという言説もあるが、葡語“promessa”と英語“promise”の関係はどうなのだろう…。“promessa de vida”=“promise of life”。英語歌詞には“promise of spring”というフレーズもある。この“promise”というのを捉えるのが難しい気がする。日本語でぴったり来る言葉がなかなか見つからない。新しい季節が巡り来る兆し。予感や期待感。そして希望。英詞の場合ならば、厳しい冬の寒さの後で約束した様に必ず訪れてくれる陽光の恩恵。春を前にして気分が浮き立つ、あの高揚する感じ…。いずれにせよ私達はその言葉から、人生を、私達が生きるこの世界を肯定する、ジョビンの懐の深いメッセージを受け取る事ができる。
天恵と人智。葡語歌詞が天(ブラジルの自然)からの恵みとするなら、英語歌詞はラテン世界に生きたマエストロ(巨匠)からアングロサクソンの文化と人への贈り物だと思う。寡聞にして日本語版の存在を知らないが、北半球の亜細亜のはずれで四季のもとに暮らす私は、幸いにもAkikoの歌声を聴きながら、詩に表現された春の歓びを実感する事が出来る。それからまた秋の長雨の頃には、過ぎ去った夏の疲労を滲ませつつ、葡語歌詞による素晴しい録音の数々を愉しむ事も。
取っ替え引っ替え、いろんなひとのレコードを聴けば聴く程に、私はこの曲の奥深さに魅力されてゆく。無邪気さと深い思索、“がらくた”と高貴なものが共存する、シンプルで複雑なこの美しい曲は、まるで世界を内包しているかの様だ。建築家を目指した時期もあったというジョビン自身の録音は、もしかしたら“設計図”みたいなものなのかもしれない。あのアントニオ・ガウディの教会建築の様に、今後とも後世の様々な人の手によって解釈され、掘り刻まれ、築き、磨き上げられてゆくべき作品なのかもしれない。もしも世界遺産にポピュラー音楽部門があるならば、直ぐさま登録されるに相応しい…そういう楽曲であると思う。仏語版の制作をジョルジュ・ムスタキが申し出たのもむべなるかな。
力量不足を百も承知の上で、恐れ多くも、この曲の歌詞を自分の言葉に置き換えてみる事の誘惑から逃れられない。とんでもない勘違いのない事を祈りつつ…。
『三月の水』
木切れ 石ころ
路の終点
切り株
ちょっと独りきり
ガラスのかけら
人生 太陽
夜 死
罠 銃
咲いている花々
尻尾に包まったキツネ
森の中の群れ
ツグミの唄
風の森
崖 滝
かすり傷 たんこぶ
何物でもないもの
自由に吹く風
坂の終点
表情の輝き 空しさ
予感 希望
川辺で交わされる
三月の水の会話
張り詰めた時期の終わり
君の心の中にある歓び
足 地面
肉と骨
路の鼓動
石つぶて
魚 稲光
銀色の輝き
争い 賭け
虹の幅
井戸の底
糸の端
うろたえた表情
損失 発見
槍 釘
切先 鋲
滴り しずく
お話の結末
穏やかな朝陽の中の
レンガの積み荷
静まり返った真夜中の
銃の一撃
遥かな隔たり 必須のもの
ぐい押し ドン突き
娘 韻
風邪ひき おたふくかぜ
住宅の設計図
寝台の身体
立ち往生した車
ぬかるみ ぬかるみ
いかだ 漂流
飛翔 つばさ
鷹 ウズラ
春の予兆
川辺で交わされる
三月の水の会話
生きることへの期待
君の心の中にある歓び
蛇 木の枝
ジョン ジョー
君の手のひらの刺
足の指の切り傷
点 米粒
蜂 刺された跡
瞬き 禿鷹
夜中の不意打ち
ピン 針
刺し傷 痛み
カタツムリ 謎掛け
スズメバチ 滲み
山の小道
馬とラバ
遠くに砂州
浮かぶ青い影みっつ
川辺で交わされる
三月の水の会話
生きることへの希望
君の心に 心の中に
木の枝 石ころ
最後の重荷
切り株
人気の無い道
ガラスのかけら
人生 太陽
夜 死
行程の終わり
川辺で交わされる
三月の水の会話
張り詰めた時期の終わり
君の心の中にある歓び
拙訳の出来はさておき、両義的な語句が散りばめられ、言葉遊びの要素もふんだんなこの素晴しい歌詞を深く味わうのに、翻訳というのは大変有効な手だてだと感じた。第一、頭を悩ませつつも、作業そのものをとても楽しめたのだ。私には雲上人だったあのジョビンも、実際に英語歌詞を作るにあたっては辞書と首っ引きで四苦八苦していたのかと想像するとなんだか可笑しいし、俄然、親しみが湧いて来る。これからは私も敬愛を込めて、彼をニックネームの“Tomトム”で呼ぶ事をお許し願おう…。
叶う事ならば、一度でいいからトム・ジョビンが天の啓示を受けたという、その夏の終わりの農園に行ってみたいものだと思う。
〈参考文献〉
『
三月の水 アントニオ・カルロス・ジョビン・ブック』
岩切直樹著 彩流社刊
『
Aguas de Marco by Tom Jobim, the Best Brazilian Song of All Times』
※英語歌詞の出典はヴァーヴ(米国)盤『Jobim』/Antonio Carlos Jobim の歌詞カードより。これは『Águas de Março』が収録されたオリジナル盤『Matita Perê』に、英語で唄う『Waters of March』を追加したものだ。ちなみにAkiko達によるカヴァーでは、最後の方の歌詞が多少違っている。 “shelves≒砂州”が“clouds≒雲”に代わり、省略された部分もある。連想ゲームみたいなアドリヴの掛け合い、Akikoとコリーンのふたりによる伸びやかな交歓が、幸せな気分を運んでくれる。
トム・ジョビンへの深い造詣と愛情溢れる一冊を書かれた岩切直樹氏のブログには、
『Águas de Março』の素晴しい和訳が掲載されています。ご一読を。最後に、本文中に取り上げた『三月の水』を収めたレコードを紹介しておきます。この名曲をご存知無い方、興味を持たれた方は、是非色々探して聴いてみて下さい。トム・ジョビンの音楽、ボサ・ノヴァ、あるいはブラジル音楽に詳しい訳でもない私が『三月の水』について語るというのは僭越に過ぎるでしょうが、この希代の名曲を繰り返し聴き、その都度“施し”を受けているひとりのリスナーとして書かせてもらいました。勿論、冷や汗ものの翻訳をはじめ、当記事への遠慮無いご意見・ご指摘頂ければ幸いです。農業とは殆ど関係ない内容になってしまいました(ありゃりゃ…)が、長駄文にお付き合い有り難うございました。
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『Hip Hop Bop』/Akiko
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『Elis&Tom/エリス&トム』/Elis Regina&Antonio Carlos Jobim
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『João Gilberto/三月の水』/João Gilberto
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『Jobim』/Antonio Carlos Jobim
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『Matita Perê』/Antonio Carlos Jobim
※追記 3/18 すいません、若干訳詞をいじっております。
※追記 3/20 ジャズ・シンガー
Stacey Kent ステイシー・ケントが
発表したばかりのアルバム でフランス語によるカヴァー『Les eaux de Mars』を唄っています。iTunes Storeで購入して聴いてますが、なかなかいい感じです。
※追記 3/20 ああっ、訳詞に明らかな誤訳が(汗)。“風の言葉”を“風の森”に直しました。何故か“wood”の綴りが“word”に見えていたのです(大丈夫か?)。それと詩の最初の方の連を分けていませんでしたので、出典どおりに直しています。それから“真夜中の銃撃”を“静まり返った真夜中の 銃の一撃”に変えました。この連だけが4行にならず揃いが悪かったもので…。ご了承下さい。